「沈黙 -サイレンス-」の件
先日「沈黙 -サイレンス-」を観てきました。
遠藤周作の原作を読んだのは遥か昔なので、どの程度原作に忠実であるか、などはまったく不明です。
というか、そんなことはどうでもいい。スコセッシ監督の職人芸がいかんなく発揮された作品です。
古典的な物語のテンプレートみたいなものがあって、ざっくりと
1.主人公がミッションを命令される。
2.異世界に旅立つ。
3.ミッションを果たす。
4.帰還する。
というもので、「ロード・オブ・ザ・リング」なども、このテンプレートです。
「沈黙」でも、このパターンを採用しています。ある宣教師(リーアム・ニーソン)が信仰を捨てた、という知らせを受けて、若い宣教師が真実を確かめに、日本に旅立つ。この、「リーアム・ニーソンはどこにいるのか、本当に信仰を捨てたのか」というのが、作品全体を通じて探求されるミステリーになります。これによって作品に一定の緊張感がもたらされます。そこに、断片的な謎かけやショックが展開していくことで、落語の桂枝雀が言うところの「緊張と緩和」が繰り返される仕組みになっています。
登場人物が泥だらけなのに、汚らしくはない、というハイセンスな画面作りや、音の使い方など、細部までこだわりぬいた、洗練された映画でした。
個人的な想像ですが、スタジオは「遠藤周作なんか映画化したって売れるわけないでしょ」という反応を示すのが当然だと思うので、スコセッシとしては、どうしたって売れる映画にする必要があったのではないでしょうか。
「君の名は。」の、売るために全力を尽くした感のある、記号的な演出もすさまじかったですが、「沈黙」はスコセッシの個人的な想いを映画化するにあたって、売れる商品としてのパッケージに成功している、と感じました。芸術作品は売れないと、次回作の資金が出ませんからね。って、なんでもそうですね。